SCD家族それぞれの軌跡

遺伝性脊髄小脳変性症を発症した家族の物語

SCD家族それぞれの軌跡① [夫篇❶]

涙の訳は

 私の夫は、母親からの遺伝で、脊髄小脳変性症を発症しました。発症は39歳でしたが、その後、騙し騙し仕事をして5年後の44歳で退職しました。歩行や巧緻動作が難しくなり、誰の目から見ても、限界だと感じる状態でした。長男が中学3年生、長女と次女は小学5年生と2年生の時でした。夫は、ギリギリまで子供たちの為に、精一杯働いたと思います。

 無口で我慢強い性格であった夫は、私に愚痴を言ったり弱音を吐くことは、一度たりともなく、私としては有難い反面、物足りなくもありました。そんな夫が一度だけ、声を上げて泣いたことがあります。退職前のことです。夫が会社から帰宅し、家族で食卓を囲んでいた時のことです。あまりに突然の出来事で、どのように場をとりつくろったらいいのか分からず、随分困惑しました。何があったのか、あえて聞くのは止めました。というより、聞けなかったというのが正直なところです。想像するに、会社でみじめな思いをしたのではないでしょうか。家族は、ただ黙って箸を進めるしかありませんでした。

  退職後の夫は、早い時期から障害者施設に入所する手続きを開始しました。私はと言えば、家族を養うという大義名分があり、仕事、仕事の毎日でした。夫に寄り添ってやればよかったという後悔は、今でも心の奥底に汚泥のように残っています。不思議なことにその頃の出来事は、記憶が飛んでしまっていて、思い出せないのです。

  入所申し込み後、待機期間がどれくらいか覚えがありませんが、障害者支援施設での生活が始まりました。子供たちには、まだ父親の存在が大きい時期だったのと、私自身が在宅で夫の世話が出来ない後ろめたさもあり、毎週、外泊をしてもらいました。夫は外泊を楽しみにしてくれていたのが、せめてもの救いでした。金曜日に仕事を終えた後、職場から15㎞先にある施設に迎えに行きます。日曜日の夕食後は、自宅から20㎞離れた施設に送り届けます。その時は必ず子供たちも同乗し、ドライブ気分を味わったものです。

そんな生活が10年弱続きました。

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